生存における本能的な判断として、
有益が得られたと感じる(快感的条件に当てはまる)と「快感」を感じ、
被害を受けたと感じる(不快的条件に当てはまる)と「不快」を感じますが、
経験による推測(情報の関連付け)によって、
有益が得られる可能性があると感じる(有益的条件に当てはまる)と嬉しいと感じたり、興奮したり、積極的になり、
怪我や死など危険の可能性があると感じる(危険的条件に当てはまる)と怖いと感じたり、不安になったり、消極的になります。
環境から情報を得る(状況を見る) ⇒ 情報に関連付けられた快不快の情報から快感的条件や不快的条件の相当を予測する(つまり、有益的条件・危険的条件に当てはまる)
有益を得られると予測(有益的条件) ⇒ 嬉しい、興奮、積極的、追求的
危険になると予測(危険的条件) ⇒ 怖い、不安、消極的、逃避的
★状況別の予測とそれに伴う状態変化の一覧 ・有益的条件(有益の可能性) A:○有益的条件の強化(快感取得予測:利益を得られる可能性が高いと予測する) ⇒ a喜ぶ、興奮する、元気になる、積極的になる、前向きになる、追求的になる B:×有益的条件の解除(快感取不予測:利益を得られない可能性が高いと予測する) ⇒ b落ち込む、悲しむ、冷める、嘆く、(怒る) ・危険的条件(危険の可能性) C:○危険的条件の解除(不快回避予測:危険を回避できる可能性が高いと予測する) ⇒ c平常に戻る(落ち着く、安心する、堂々とする、余裕がある、リラックスする) D:×危険的条件の強化(不快被受予測:危険を被る可能性が高いと予測する) ⇒ d怖がる、焦る、挙動不審になる、不安になる、緊張する、消極的になる、後ろ向きになる、逃避的になる、(怒る) ※平常時(利益も危険も感じていない状態)もcになる |
たとえば、ビンゴゲームに参加し、リーチがかかると利益を得られる可能性が高いと予測し喜んだり興奮したりします。(A)
また、前から大柄でコワモテな男性が歩いてきた場合、被害に遭う危険性があると予測し緊張したり不安になります。(D)
(余談ですが、誰かが死んで悲しい(b)は、好きな人(有益)が死んだ(もう得られない)からであり、死が怖いから(d)ではありません)
なお、一般的にはa及びcの状態を「自信がある」と呼び、b及びdの状態を「自信がない」と呼びます。
これについて詳しくは次の「自信について」にて解説します。
自信について
自信をどう定義するかによって結論は異なりますが、
人間が共通で感じている感覚を自信とするのであれば、
一般的に定義されている「自分の価値、能力を信じること」や、
「自信の高さは自分の身体能力の高さに比例する」と思われていることは間違いであり、
自信と呼ばれる感情の正体は「起点(状況における有益危険)に対し経験(過去の状況における顛末)から予測される結末に伴う感情」、
つまりは前述の「状況に対する結果の推測によって変化した状態(a~d)」のことであり、
自信に身体能力は関係なく、予測結果の良し悪しに伴う感情と言えます。
×一般的な自信の定義
自信の高さ=身体能力の高さに比例
自信の感情=身体能力の高さに伴う優劣感
○自信と呼ばれている感情の正体
自信の高さ=経験によって予測された以後の良悪に比例
自信の感情=経験によって予測された以後の良悪に伴う状態変化(感情)
わかりやすく言えば、状況における予測の結果、
AやCになる可能性が高いと考えるほど「自信がある」、
BやDを回避できない、BやDになってしまうと考えるほど「自信がない」と感じます。
自信の構造
一般的には「自身の身体能力によってAやCにできる」と感じる場合を「自信がある」と思われていますが、
実際には「AやCになる可能性が高い=自身の力は関係なく、状況や運によるものであったとしても」
AやCになる可能性が高いと感じるほど「自信がある」と感じます。
これを状況別に解説します。
有益の可能性における自信
身体能力が全く関係ない状況として、たとえばビンゴゲームを行って賞品を獲得できるか否かの場合、
ビンゴゲームを初めてやる人は自信の有無は感じません。
しかし、今回のビンゴゲームが5回目で、過去に4回ビンゴゲームにおいて
これまでに4回とも一等をとったことがある場合は「今回も一等をとれる」と「自信」を感じ、
これまでに4回とも1つの穴さえ開かなかった場合は「今回も当たらないと思う」と「自信がない」と感じます。
このように、過去の経験によって自信が発生するのであり、身体能力は関係ないということになります。
(俗に言う「根拠のない自信」は経験則であり、類似の経験によって良い結果に終わると予測できるために起こる感情になる)
×身体能力が高くなるほど自信を持てるようになる
○起点を越えることができると思えるほど自信を持てる
危険の可能性における自信
身体能力が関係あると思われやすい状況として、たとえば川を前に「跳び越えられるか?」と考える場合、
自分の跳躍力が川幅を超えていると感じると自信があると感じると捉え、自分の跳躍力よりも川幅が広がるにつれて自信がないと感じると捉えるため、
一見すると身体能力に比例しているように見えますが、
実際には、能力ではなく起点(この場合は川幅)に対する予測によって発生しているのであり、能力に比例するわけではありません。
つまり、どれだけ跳躍力が高くなっても、それ以上の川幅になれば自信はなくなるし、
どれだけ跳躍力が低くても、それ未満の川幅であれば自信はあると言えます。
×身体能力が高くなるほど自信を持てるようになる
○推測対象において起点が低くなる(自身が超えられる)ほど自信を持てる
補足として、明らかに短い川幅だと自信の有無を感じないのは、
起点が「川幅」ではなく「他人」になってしまっているからと考えられます。
つまり、「他人ならこのくらい飛び越えられるから飛び越えられても普通」と考えてしまうことで、自信が発生しないようになるのです。
他人と比較してしまうことについて詳しくは後述します。
自信の有無は予測の結果
このように「自信(感情)」は「予測の結果(有益危険)」によって起こっているのであり、
「身体能力」は一切関係しません。
たとえば有益の可能性で説明したビンゴゲームのように、
良い結果になると予測できれば自信があると感じ、悪い結果になると予測できれば自信がないと感じます。
危険の可能性で説明した川を跳躍する場合も同じで、
川を跳び越える能力があるから自信があり、能力がないから自信がないのではなく、
悪い結果を避けられるから自信があると感じ、悪い結果を避けられないから自信がないと感じます。
これは自信を感情として捉えれば当然であると理解できます。
すなわち、
「良いこと(利益)があると予想できる」から「良い感情になる=自信がある」のであり、
「悪いこと(危険)があると予想できる」から「悪い感情になる=自信がない」のであり、
能力の数値がどうであれ、良いことや悪いことがなければ感情が変化することはありません。
「能力の高低」 + 「利益や危険無し」 ⇒ 感情(自信)に変化無し
「利益や危険あり(予測を含む)」 ⇒ 感情(自信)に変化あり
何も予測しない、予測できない ⇒ 自信は発生しない(感情が変化しない)
良い結果になると予測できる ⇒ 自信がある、自信が高くなる(良い感情になる)
悪い結果になると予測できる ⇒ 自信がない、自信が低くなる(悪い感情になる)
このように、自信は自身の能力の高低からくるものではなく状況における予測の結果であり、予測はこれまでの経験の傾向になるため、
過去に同様類似もしくは関連する経験において良い結果と感じる経験をしているほどその状況において自信は高くなり、
過去に同様類似もしくは関連する経験において悪い結果と感じる経験をしているほどその状況において自信は低くなります。
その為、何かに対して自信がある人はこれまでに同様類似もしくは関連する経験でAやCと感じる経験を多くし、
自信がない人はBやDと感じる経験を多くしているということになります。
同様類似の経験:たとえば美女との恋愛において言えば、別の美女に好かれたことがあるなど
関連する経験:たとえば美女との恋愛において言えば、女性に微笑まれたことがある、女性との会話が弾んだ事があるなど
自信の発生は起点の認識
自信と呼ばれる感情(状態への変化)は「状況における予測の結果」に伴う感情であり、
すなわち「予測の材料となる状況=起点」を認識して初めて自信の有無が発生する(判断ができる)ということになります。
起点を認識する ⇒ 自信が発生する
起点を認識していない ⇒ 自信は発生しない
たとえば、目の前に川があったとしても、それを跳び越える必要がなければ特に意識しないので川の跳び越えに対する自信の有無も発生しません。
目的地に行くためにその川を跳び越える必要があったり、他人から「あの川、跳び越えられる?」と聞かれたりした場合、
起点が発生し以後を予測する為に自信の有無が発生します。
目の前に川がある ⇒ 「その川を超えられるかどうか」を推測しなければ自信の有無は発生しない
目の前の川を超える必要がある ⇒ 「その川を超えられるかどうか」の推測によって自信の有無が発生する
これは川幅が1cmであっても2mであっても100mであっても同じになります。
補足説明:人間は周囲の人々の反応を利用する為(反応利用)、周囲の人々が起点になりやすい
上記に則ると、起点が1cmの川となった場合、
つまり「1cmの川を跳び越えられる?」と聞かれた場合、
自信の有無が発生することになるはずですが、実際には自信は発生にしくいです。
その理由は「川幅1cmなら(一般的な人は)跳び越えられて当たり前」と考えるからであり、
つまりは起点が「1cmの川を跳び越えられるかどうか=川」ではなく「人々が1cmを跳び越えられるかどうか=人々」になっているからになります。
起点:1cmの川を跳び越えられるかどうか=自分は川を越えられる ⇒ 自信があると感じる
起点:周囲の人々が1cmを跳び越えられるかどうか=自分は人々を越えていない ⇒ 自信があると感じない
人間が生きる上で他の人間の存在が重要になるため、どうしても周りの人間を基準(起点)として考えてしまう(反応を利用する)傾向があり、
それによって「目の前の問題」ではなく「集団における(社会的な)立ち位置」によって自信の有無を感じてしまいます。
(詳しくは後述の「自信=身体能力の誤解の原因」にて解説)
これは本能的な競争意識によるものになるため仕方のないことではありますが、これを打破することができれば物事が上手くいきやすくなります。
×周囲の人と比べてしまう ⇒ 劣っていると感じる ⇒ パフォーマンスが発揮されにくくなって物事が上手くいきにくくなる
○周囲の人に勝っていることは周囲の人と比べて自信を持ち、負けていることは比べずに問題とだけ向き合うようにする ⇒ メンタルが悪くなりにくいのでパフォーマンスが落ちにくくなる
他者との比較による自信の有無
①起点=その状況において重要な要素(能力)を相手と比較し、
②自分の方が優れている(格上)=勝てる(安全)と感じれば、安心して心に余裕ができ(自信が発生し)、
自分の方が劣っている(格下)=負ける(危険)と感じれば、不安になって余裕がなくなります。(自信がなくなる)
①たとえば、ボウリング大会では無意識的にボウリングの上手さやスコアを比較しようとし、
足の速さやIQやこれまでに付き合った異性の多さを比較しようとはしません。
ボウリング大会 ⇒ ボウリングが起点(状況において重要なこと)になる
②自分のスコアのアベレージが150とした場合、大会の参加者の平均が100なら心に余裕ができ、
大会の参加者の平均が200なら心に余裕がなくなります。
自分のスコア150 ⇒ 他人のスコアが100なら自信が湧き、他人のスコアが200なら自信がなくなる
自分のスコアのアベレージが80とした場合、大会の参加者の平均が30なら心に余裕ができ、
大会の参加者の平均が130なら心に余裕がなくなります。
自分のスコア80 ⇒ 他人のスコアが30なら自信が湧き、他人のスコアが130なら自信がなくなる
自信=身体能力の誤解の原因
なぜ一般的には身体能力が高いほど自信が高くなると思われているのかと言えば、
それは同種間の競争に問題があります。
同種間における食料の奪い合い、配偶者の奪い合い、テリトリーの奪い合いなどは
全て身体能力が高い方が勝ちやすい為、
同種の他個体と比較して身体能力が高いほど安心でき(自信がつき)、
身体能力が低いほど不安になる(自信がなくなる)からになります
しかしながら、これはあくまで他個体との比較によるものであり、
「A.比較する他個体がいない場合は他個体に対する自信の有無は発生しない」し、
「B.比較する他個体がいる場合はその他個体の能力が基準になる」ため、
比較する他個体の能力(起点)が低いほど安心し(自信は高くなり)、
比較する他個体の能力(起点)が高いほど不安になります。(自信は低くなる)
「A.比較する他個体がいない場合は他個体に対する自信の有無は発生しない」
たとえば、他人との比較を意識しない起点(能力)は自信の有無が発生しません。
一例としては内臓の形、寝息の音の美しさ、血液の匂い、肌の味、歯の硬さ、お茶碗を持った時の角度、走っている時の呼吸の回数など
「B.比較する他個体がいる場合はその他個体の能力が基準になって自信の有無が発生する」
他個体がいる場合、その他個体と比べて勝っていると感じるほど安心し(自信があり)、
他個体と比べて劣っていると感じるほど不安になります。(自信がない)
ただし、これはあくまで起点(環境において重要な要因)による比較になる為、単純な身体能力に限りません。
たとえば、スポーツで勝負することになればスポーツの上手さの比較になりますが、
テストでは学力の比較になり、
みんなでゲームすることになればゲームの上手さの比較になり、
並んで立てば身長の比較になり、
ルックスを意識すればルックスの比較になります。
実際に「能力が高くても自分に自信がない人」「能力が低くても自分に自信がある人」がいるように能力の高さは関係なく、
自信はあくまで起点における予測の結果であり、起点が基になっているということがキチンと理解できれば、
起点をコントロールすることによって自信をコントロールすることができるようになります。